[、聖霊と宣教
1、三位一体の神と宣教
(1)神は宣教の創始者である。
もちろん、私たちが宣教するためには、宣教の戦略や物質的資源、霊的資源、人的資源、宣教の方法などが必要ですが、根源的な宣教の主体は三位一体の神様です。
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、
空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記・1:26〜28)
神様は、罪を犯して身を隠していたアダムとエバを捜して、来て下さいました。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記・3:8〜9)
神様は、旧約時代に預言者を通して、宣教を継続されました。
(2)イエス・キリストは宣教の基礎完成者である。
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
宣教の目的は、神の民を救い出すために、全世界、地の果てまで、主イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えることです。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように
彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ・28:19〜20)
「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ・16:15)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム
ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝・1:8)
(3)宣教の遂行者。
宣教の遂行者は、聖霊様です。父なる神様は計画を、イエス・キリスト様は宣教の基礎を完全にお造りになり、聖霊様をお送りになり、聖霊様は教会の運営者になり、宣教の遂行者なのです。
(4)教会は宣教の基地である。
聖書を創世記から黙示録まで読んで見れば、救いの歴史であり、宣教の歴史であることが分かります。
イエス・キリストがこの世に来られて、教会を新しくし、教会を宣教の基地として下さったのです。
2、聖霊と宣教
旧約時代の宣教思想、イエス・キリストの宣教思想を見て、それがどうやって聖霊時代に移って来た
のかについて、学びましょう。
(1)旧約時代の宣教思想
旧約の中心内容は、多くの民族の中で、神はイスラエルを選択されたことです。そして、イスラエル民族は、神の選択を受け、神と契約関係にありました。ここで、契約という言葉が重要です。ですから、旧約のあちこちで、「わたしは主である。あなたがたは、わたしの民である。」という契約関係が
よく現わされています。それでは、神様はなぜイスラエルを選択され、契約を結ばれたのでしょう。
それは、ひとつの目的のためです。それは、イスラエルに神の啓示、神の御旨を異邦人に伝えさせる
ためでした。それが、簡単に言えば、旧約教会の意味です。
創世記1章から2章までを読んでみても、「罪」という言葉は出てきませんし、黙示録21章と22
章にも出ていません。つまり、創世記1〜2章を罪以前の歴史、黙示録21〜22章までを罪以後の歴史と言うことができます。従って、創世記3章から黙示録20章までの歴史を、神が人間を救おうとされる救いの歴史と言うことができます。ですから神様は、堕落した人間を救うためにイスラエルを選び、契約を結ばれたのです。
旧約イスラエルの宣教の役割には、派遣の意味を見ることができません。むしろ、異邦人がイスラエルの内的敬虔生活や、神の祝福を見て、エルサレムに集まって来て、見て、感じて、悟って、神を捜すようにするのが、旧約の宣教思想だったのだと思います。ですから、イスラエル民族の目的は、聖
民になることでした。聖民の敬虔生活を通して、異邦人が神に集まって来るようにすることでした。
イスラエル人は、今でもこの思想を持っています。いわば、旧約の宣教思想は、「球心運動」であったのです。宣教と言えば、外に遣わす意味があるのに、イスラエルは、宣教よりも召命意識を持っていたと言えます。
選ばれた民として、世界の仲保者の役割をしなければならないのに、彼らの失敗は、真の仲保者であるメシヤであるイエス・キリストを受け入れずに、メシヤの解放の意味を知らなかったことです。メシヤ、すなわち、イエス・キリストのご降誕とともに、旧約時代の宣教概念は、根本的に変化されたのです。
(2)新約時代の宣教思想
新約時代の宣教思想は、イエス・キリストによって確立されました。それは、「全世界に出て行き、全ての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」ということです。ですから、新約の宣教思想は、旧約の「球心運動」とは対照的に「「、遠心運動」と言えます。つまり、外に向かって広がって行くことです。
イエス・キリストが主であるという意味は、全宇宙的、全世界的という意味です。「主」、すなわち、
ギリシャ語で「Kurios」と言う言葉の故に、キリスト教はローマ帝国により大迫害を受けたのです。
キリスト教の宣教が活発的に、異邦人の領域にまで及んだのは、イエス・キリストの死後、復活、五
旬節の日の後のことです。全世界の全ての民族に神の御言葉を伝えるようにする、神の終末的行為としか理解せざるを得ません。言い換えれば、聖霊時代は、宣教の時代とも言えます。ですから、宣教と言うのは、終末論的な性格を持っていると思います。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ・24:14)
(3)聖霊時代の宣教概念
御父主導型の旧約時代、御子主導型の新約時代を経て、聖霊主導型の終末宣教時代になりました。パウロは、聖霊の派遣は、御子イエス・キリストの派遣であり、結果であると言いました。
「そして、あなたがたは子であるがゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ・4:6)
@ 聖霊と宣教戦略
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒・1:8)
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御
名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように
彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ・28:19〜20)
「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ・16:15)
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ・24:49)
A 宣教の霊
「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食
をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」(使徒・13:1〜3)
B 宣教と教会
教会は、聖霊の働きによって、宣教するところです。ですから、宣教する教会は、リバイバルします。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼するものは、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」(ローマ・10:10〜15)
従って、キリスト教会は、宣教推進にあって、新しい方向も聖霊によって展開されなければなりません。例えば、使徒行伝11章で、異邦人コルネリオの家が救われたことは、完全に聖霊が主導されたのがわかります。ですから、新約教会が聖霊降臨とともに始まったように、異邦人の宣教もやはり、聖霊が始められたことがわかります。このような点で、使徒行伝は、「聖霊行伝」と言えますし、聖霊と宣教は不可不離の関係にあると言えます。
(4)宣教の内容
宣教の内容は、神の普遍的救いです。私たちが福音伝道をする時の福音とは何でしょうか。福音は、イエス・キリストです。ではイエス様の何を伝えるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天されて聖霊をお送り下さり、全世界福音伝道のために、天と地の権威を持っておられるイエス・キリストを伝えることです。
キリスト者の宣教任務は何でしょうか。聖霊に満たされて、イエス・キリストの証人となることです。
(5)宣教の方法
宣教が本質的に聖霊中心であるならば、教会も宣教のために存在する機関です。宣教という神の救いの運動の手段として存在するのが、教会です。ですから、聖霊は教会の主導者になって、宣教の働きをされるのです。聖霊は教会を武装され、ただ聖霊の力によって、大胆に福音を伝えるようにされたのです。
@ 内的に愛の集団、すなわち、教会が形成されました。
それまでは、各自イエスの弟子であったのが、聖霊に満たされてから心が一つになり、熱心に集まり、
祈りと伝道に力を尽くしました。そして、主イエスの命令通りに、世界に向かって福音伝道のために
出て行ったのです。五旬節の聖霊降臨は、世界宣教という神の救いの意志が聖霊を通して成就されるのを見せて下さったということです。
A 聖霊は、人々の思想を根本的に変化させました。
彼らの人生観が変化されたのです。彼らの基本概念、固定観念は崩れ、新しい歴史、新しい秩序、新しい体制に向かって一つの積極的な夢をもたらしました。それまでの自己中心的思想の形から離れ、教会と世界宣教を考えるようになりました。この世の人たちが、考えもしなかった変化が、聖霊に満たされた人々に起こったのです。ですから、世の人々は、聖霊に満たされた人を指して、「世界中を騒がせる者」と言ったのです。
B その変化は、世界化しました。
全ての壁を破り、今日まで至りました。五旬節の日に集まった十五カ国の人々が、自分の母国語で聞くことができたのは、神の聖霊の超人的異言(他国の言葉)の働きです。それは、人種や言葉の壁を越えて、全世界福音化がなされることを意味します。従って、宣教には、人種の差別や、民族意識や
宗派(キリスト教の教団、教派)意識などがあってはならないのです。神が、イエス・キリストをこの世にお送り下さったのは、ある集団や個人のためではなく、全人類のためなのです。文化が違い、言葉が違い、教団、教派の形式や主張が違っても、教会はいつも天と地の全ての権威を主から受けて
宣教のためには共同戦線を広げなければなりません。
(6)聖霊と教会成長と宣教
エルサレム教会は、聖霊の働きによって急成長しましたが、宣教をしなかったので、歴史から早くもその姿を消しました。しかし、いろいろな面でエルサレム教会よりも足りなかったアンテオケ教会は
宣教する教会だったので、長く用いられた教会でした。
@ 歴史的に見る教会成長
a、初代教会の成長
エルサレム教会、アンテオケ教会、ピリピ教会、エペソ教会など初代教会は、聖霊主導型教会成長がありました。宣教意識を持って、世界福音化の種蒔きをしました。
b、コンスタンティヌス型の成長
コンスタンティヌス皇帝の時代には、「キリスト教の黄金期」と呼ばれるほど、大部分の人がクリスチャンになりました。やがてキリスト教は、ローマ帝国の国教となりました。これは、大成長の教会成長と言われるかも知れませんが、聖霊主導型の教会成長ではなく、政治的教会成長と呼ぶべきもので、望ましい教会成長ではありません。
c、中世期型の教会成長
国民の何パーセントがクリスチャンであるかどうかは、問題ではないのです。当時、教皇(法王)は、太陽と呼ばれました。従って、国民の大多数は教会の影響の下で生きなければなりませんでした。政治、経済、社会、文化、教育まで、教会が独占したのです。これも望ましい成長ではありません。法王のための教会であり、団体のための教会だからです。
d、キリスト教国家型の成長
大部分の人は、クリスチャンのように見えますが、名前だけのクリスチャンが多くなる可能性も高いのです。このような成長も、聖霊主導型成長とは言えません。
以上、教会成長の型を見てきましたが、教会の成長は、迫害の中で起こり、宗教改革は、教会成長の
全盛期に起こったことが分かります。つまり改革は、教会の数的増加状態で必要になってくると思われます。
いずれにしても、聖霊が主導される教会成長でなければ、望ましい成長ではないと言えます。
A 教会成長の目的
教会成長には、三つの種類があります。第一は、生物学的成長です。子供の出生により、その数が多くなる成長を意味します。第二は、転入成長です。これは、他の教会から移転して来るケースです。
もちろん引越しによる転入も含まれます。第三は、改宗成長です。これは、信じなかった人が悔い改めて信者になることです。この第三の形態が、最も望ましい成長です。
教会成長学では、国民の25パーセントが信者になると、到達した民族と呼びます。また、25パーセント以下を未到達の民族と言います。塩水は塩分が25パーセント以上になる時に、塩の結晶体ができると言われます。国民の25パーセント以上が信者になった場合、教会は、宣教に注力しなければなりません。もちろん、教会は宣教のために存在するのですから、始めから宣教しなければなりませんが、25パーセント以上になっても宣教中心の教会にならなければ、教会の制度的腐敗も排除することはできません。このような実証は歴史上確かにあったのです。イエス様は言われました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ・5:13)
結論
聖霊の働きは、初代教会だけに局限されたのではありません。先の雨のように、2〜3世紀まで世界宣教のために、教会を用いて下さいました。中世期になって、人為的な方法で外的教会成長はありましたが、それは人間の魂を救う目的よりは、政治、経済などの目的の手段として、腐敗したものでした。ですから、聖霊様は宗教改革を主導され、成功させられたのだと思います。
19世紀に入って、後の雨のように聖霊の活発な運動が始まり、宣教の偉大な世紀となりました。
聖霊と宣教の働きは、三位一体なる神の働きであり、神の救いの御業から始まり、今日に至るまで継続され、主イエス・キリストの再臨の時まで続くと思われます。
使徒行伝は、聖霊行伝です。ですから、まだ終わりではありません。現在も継続しています。そういう意味で、聖霊論の結論も終わってはいないのです。しかし、聖霊時代(イエス・キリストの御昇天から再臨まで)には、聖霊様が教会の行政官として、教会の全てを運営しておられるのです。教会と信徒は、ただ聖霊が用いられる道具に過ぎないと信じて、謙遜になり、地の果てまでイエス・キリストの証人とならなければなりません。
教会成長も、宣教も、聖霊の働きでなければ無意味であり、望ましいことではありません。初代教会のように聖霊の働きが今日も現れるように、強く祈り求め、聖霊に満たされ、主イエス・キリストが
下さった至上命令(マタイ・28:19〜20、マルコ・16:15、使徒・1:8)に従い、全ての民族に主イエス・キリストの福音を証しすべきです。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ・24:14)